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河村城跡(かわむらじょうあと)

[2019年3月7日]

ID:1056

空撮写真

ここがすごいぞ!河村城!!

(1)県内の山城で県指定史跡は河村城跡だけ

(2)県内最大級の障子堀がある

(3)県内で障子堀の復原的整備を行っている唯一の城跡


河村城ってどんな城?

 現在の山北町周辺を支配していた河村氏が、山頂付近に砦のようなものを築いたのが河村城の始まりと言われています。南北朝時代の記録に「河村城」と書かれているので、このころには城があったと考えられます。

 では、今、浅間山に連なる丘陵の山頂にある河村城はいつの時代の城の姿を残しているのでしょうか。

 それは戦国時代、河村城が北条氏の城だった頃の姿です。

 しかし、河村城には小田原城のような、水を蓄えた大きな堀や石垣、天守閣はありません。それは、河村城が山城と呼ばれる城だからです。

 山城とは山のでこぼこした地形を活かして敵に攻められにくいようにつくられた城で、山頂付近には山を削ったり、土を盛ったりして、平らにした郭(くるわ)があちらこちらにあります。山城は戦いになった時だけ使われた城で、普段、人々は山のふもとの平らな土地で生活していました。河村城では南側のふもと(現在の岸地区)が生活の場所であったと考えられ、河村館跡(かわむらやかたあと)と呼ばれる遺跡が残っています。


↓↓↓ もうちょっと詳しい説明 ↓↓↓

 河村城は、郭の配置などが近世の絵図にも残っており、また発掘調査により障子堀(しょうじぼり)や橋脚遺構、空堀、段切腰郭等が発見されています。

 河村城を築いたとされる河村氏は、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族、波多野遠義の子、秀高が現在の山北の地を領し、河村を名乗ったことに始まると考えられています。

 源氏と平氏による石橋山の合戦の際、河村秀高の子、義秀は平氏に味方したため領地を没収されてしまいますが、鎌倉で源頼朝に流鏑馬の妙技を披露し、本領河村郷に復帰できたと言われています。(『吾妻鏡』)

 また、義秀の弟秀清は頼朝の奥州征伐に従い、戦功により岩手県に領地を得て、奥州河村氏の祖になったと考えられています。

 建武の中興、新田氏の鎌倉攻めの時には、河村氏は波多野氏や松田氏とともに新田氏に味方して活躍します。しかし、その後の南北朝時代になると、畠山国清を主将とする北朝方の足利尊氏軍と戦火を交え、正平7~8(1352~53)年には河村秀国、秀経が南朝方の新田義興らとともに籠城しますが、「南原の戦い」に敗れてしまいます。(『太平記』)

 その後は関東管領上杉氏、大森氏の持城となった時期を経て、最終的には小田原北条氏の武田氏に備えた出城として重要視されましたが、豊臣秀吉の小田原攻めに際し、廃城になったと考えられています。

 

河村城跡の動画コーナー

河村城址歴史公園(かわむらじょうしれきしこうえん)※史跡整備

 平成元年から6年の歳月をかけて河村城跡の調査研究と歴史公園としての整備が行われ、平成6年5月に「河村城址歴史公園」が誕生しました。

 その後、平成8年には県内の山城としては初めて県指定史跡となりました。

 また平成15年に整備の基本構想である「河村城跡史跡整備マスタープラン」を策定し、現在も整備を継続しています。

 今後も町の貴重な文化財を保護・保存していくとともに、町のシンボルとして、町民をはじめ広く「歴史を感じ、自然を満喫できる異空間」として活用を図っていきます。

河村城跡カラーパンフレットのダウンロードはこちらから!

河村城跡写真館

縄張り図
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大庭郭から西を望む

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本城郭、蔵郭間に架かる木橋の復元的整備

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本城郭、小郭間の障子堀

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春の本城郭

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展望あずまや<2019年2月完成>

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あずまや1階には机やイスがあります

展望写真

足柄平野と相模湾を一望!(大庭郭から南の眺望)

発掘調査の様子

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蔵郭と近藤郭間の堀切(障子堀※しょうじぼり)

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茶臼郭、小郭、本城郭の障子堀

用語解説

郭(くるわ)

山を削ったり、土を盛ったりして、平らに造成した場所

堀切(ほりきり)

敵の移動を制限するために谷地形などを利用して造成した堀

障子堀(しょうじぼり)

堀の中に高さ2~3mほどの壁状に堀り残した部分を持つ、堀の一種。堀り残した部分を設けることにより、堀の中での移動を制限する。小田原北条氏の城に共通してみられる堀の作り方で、「畝堀(うねぼり)」とも呼称される。

河村城跡への来城方法

<電車で>

JR御殿場線山北駅南側。徒歩30分程度。

<車で>

河村城址歴史公園がある山頂部まで車でご来城いただけます。※詳しくは地図(PDF)をご覧ください。

車でのご来城ルートは地図をご覧ください。

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町内の城郭遺構

新城跡

 小田原北条氏が武田氏に備えて築城したとされる山城跡です。

 永禄12(1569)年、武田信玄によって湯ノ沢城などとともに落城したことや、天正9(1581)年、武田勝頼によって落城したことが記録に残っています。また、天正18(1590)年、城番が遠山左衛門尉景政だった頃には、小田原攻めを行う豊臣軍の先鋒だった徳川家康の配下による攻撃を受け、31人が打ち取られたという記録も残っています。

 2018年12月から約1年間、新東名高速道路工事に伴う発掘調査が行われます。主に北側の斜面部、約2万平方メートルを調査し、堀などの遺構が見つかっています。

アクセス※徒歩のみ可

 現在は山の麓にある清水支所から山道を40分程度歩いて到達しますが、高速道路工事が完成するとスマートインターへ向かう道路から車でアクセスできるようになる予定です。

鐘ヶ塚砦跡(かねがつかとりであと)※神奈川県立山北つぶらの公園内

戦国時代、小田原北条氏により築かれたと、江戸幕府が作成した地誌「新編相模国風土記稿」に記載されています。

神奈川県立山北つぶらの公園内の「つつじ山展望台」にあったと推定されます。

アクセス

中川城跡

中川城は、南北朝時代には河村氏の持城で、新田義興をこの城から甲州へ逃がしたことや、戦国時代には小田原北条氏の山城として利用され、武田信玄によって落城したということが、「新編相模国風土記稿」に記載されています。

アクセス

県道76号線で丹沢湖を過ぎ、中川方面へ向かう途中の「中川橋」を渡ります。橋を渡り左折して、すぐの「中川隧道」を抜けた先のキャンプ場跡地内に所在したとされています。

湯ノ沢城跡

小田原北条氏の山城で、永禄12(1569)年、武田信玄によって落城したと「新編相模国風土記稿」に記載されています。

アクセス

中川温泉街の東の山中にありますが、案内板はありませんので徒歩で行くことも難しいです。

大仏城山(だいぶつじょうやま)

「新編相模国風土記稿」に小田原北条氏の出城で、永禄12(1569)年に武田信玄により落城したと記載されていますが、三保ダム建設の際に削平されました。

「森林セラピー基地」認定!

 町では、町域の約9割を占める広大な森林の新たな活用を図るため、平成22年1月に「森林セラピー基地」の認定申請をNPO法人森林セラピーソサエティーに行い、平成23年4月24日に全国で44番目の「森林セラピー基地」に認定されました。

 認定された「セラピーロード」は、「河村城跡・洒水の滝コース」「大野山コース」「西丹沢県民の森コース」「世附の森コース」の4コースです。

 森林セラピー基地とは、リラックス効果が森林医学の面から専門家に実証され、さらに関連施設等の自然・社会条件が一定の水準で整備されている地域のことで、県内では厚木市に続いて2か所目の認定となりました。

 ★こちらをクリックすると 森林セラピー のページへ移動します★

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もしかしてここにも堀が・・!?

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山北町役場生涯学習課生涯学習スポーツ班

電話: 0465-75-3649

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