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山北の歴史

[2021年2月16日]

ID:321

山北の歴史

 山北町は、町域の約90%が西丹沢の山間部ですが、遺跡では縄文時代、文献では平安時代末期までさかのぼれるように、昔から人が暮らしていました。四季の自然とともに生き、農耕に励んだ町の先人たちが、今日まで残した足跡をたどってみましょう。

原始・古代【原始・古代 ~ 平安時代】

 山北の歴史は古く、遺跡では石斧や土器、竪穴住居跡などが発見された尾崎遺跡(三保)や共和小学校遺跡(共和)など、今からおよそ五千年前の縄文時代中期までさかのぼります。

 大陸から稲作文化が伝わった弥生時代では、堂山遺跡(山北)などに生活の痕跡を見ることができます。

 古墳時代になると、地域の権力者があらわれ、南原古墳群(岸)や水上古墳群(向原)などが造られるようになります。

 平安時代末期には、秀郷流藤原氏の一族波多野遠義の子秀高が河村を名乗り、河村城を居城に山北の地を治めることになります。このころの山北は、川村郷もしくは河村郷と呼ばれ、川村向原、川村岸、川村山北、皆瀬川、都夫良野、谷峨、湯触、川西、山市場、神縄、世附、中川、玄倉の13ヶ村からなっていました。川村郷の各村落がいつごろから形成されたかはあきらかではありませんが、村名は一般庶民が生活環境からつけた素朴な地名が多く、向原、岸、山北なども自然の景観からつけられたと考えられます。

中世・近世【鎌倉時代 ~ 江戸時代】

 『吾妻鏡』や『新編相模国風土記稿』によれば、河村秀高の子義秀は源頼朝の石橋山挙兵の際、平氏側に味方したため領地を没収されますが、流鏑馬の妙技により河村郷に復帰できたとあり、県指定無形民俗文化財「室生神社の流鏑馬」の起源と考えられています。

 建武の中興の時代、新田氏の鎌倉攻めの際には、河村氏は南朝側に味方し活躍しますが、北朝の足利尊氏軍に敗れてしまいます。

梵天山遺跡出土和鏡

 その後、河村城(山北)は小田原北条氏の持城となり、河村新城(清水)・中川城(三保)・湯ノ沢城(三保)とともに、武田氏に備える重要な役割を果たすことになります。

新田義興居城相州河村古城絵図

「新田義興居城相州河村古城絵図」

 江戸時代の山北は小田原藩に属し、川村向原、川村岸、川村山北、皆瀬川、都夫良野、谷峨、湯触、川西、山市場、神縄、世附、中川、玄倉、平山の14ヶ村で構成されていました。元禄の大地震、宝永の富士山噴火により、山北は一時幕府領になるほどの大被害を受けます。また、大量の降灰により皆瀬川が氾濫を繰り返したため、時の名主湯山弥五右衛門らが中心となり、掘割によって洪水を防ぎましたが、反対に水不足に悩まされ、川入堰や瀬戸堰などの用水建設に力を注ぐことになります。

掘割前の皆瀬川(「相模国足柄上郡山北村絵図」)

 江戸幕府が相模国に置いた関所は8ヶ所ですが、山北にも箱根の裏関所として川村と谷峨に関所が置かれました。

 村の生活は度重なる天災により、必ずしも裕福とはいえず、『山北村鑑』によると1746年ころの山北は、人口985人、168戸で穀物不足に悩まされていたとあります。村人の心のよりどころとして建立された道祖神庚申塔も多く残されており、古いものでは道祖神が明和6年(1769)、庚申塔では寛文11年(1671)のものがあります。

道祖神、庚申供養塔

(左)庚申供養塔【寛文11年】
(右)道祖神【明和6年】

尾崎遺跡全景

尾崎遺跡発掘調査現場全景

尾崎遺跡出土土器

尾崎遺跡出土縄文土器(縄文時代中期)

南原古墳群 見学会写真

南原古墳群(1号墳)の発掘調査現場説明会

近代【明治時代 ~ 昭和初期】

 大政奉還により江戸時代が終わりを告げ明治時代になると、世の中は大きく変わります。山北は、廃藩置県により明治4年に足柄県に、9年には神奈川県に編入されます。明治22年町村制施行と同時に、川村向原・川村岸・川村山北を併せて川村、皆瀬川と都夫良野の2ケ村が合併して共和村になります。
 さらに、明治42年には中川、世附、玄倉の3ケ村が合併して三保村に、大正12年には谷ケ、山市場、川西の3ケ村が合併して清水村になります。昭和8年町政施行により川村を山北町に改称します。

明治時代の地図

迅速測図【明治21年、大日本帝国陸地測量部】

 新しい世の中に変わり、各地域に学校がつくられるほか、明治22年の東海道線の開通で山北駅が開業すると、山北も鉄道の町として大きく変わっていきます。

明治初期の山北駅前写真

明治初期の山北駅前

 大正時代になると一層鉄道の町の様相が強くなり、山北駅前には多くの商店が軒を並べ、演芸場や呉服店、馬力屋、薬屋、医院などで大変な賑わいでした。このころの山北駅周辺は、鉄道唱歌や童謡「汽車ポッポ」などに唄われるほか、「線守稲荷」の民話、山北駅名物「鮎寿司弁当」なども生まれました。

山北駅前写真

山北駅前

大正時代の富士電力山北発電所

 また、農業では明治11年に岸の高橋倉次郎がみかんの栽培を始め、大正時代にはカナダに輸出されるほど普及するほか、関東大震災の復興のために清水地区でお茶の栽培が始まります。

 昭和9年、丹那トンネルの完成により国府津~沼津間は御殿場線となってしまいます。しばらくして、日本は太平洋戦争への道を歩み、山北も空襲による被害を受けることになります。

昭和6年頃の山北駅構内

現代【山北町の誕生】

 太平洋戦争が終わり新しい国づくりが進むなか、山北町でも住民の精力的な運動により、昭和22年に谷峨駅、31年には東山北駅が開設されます。

 また、昭和30年には、山北町と共和村、清水村、三保村が合併、北足柄村平山と松田町高松を編入し、新しい山北町が誕生します。当時の人口は、16,689人でした。

町村合併の経過

 昭和38年には役場庁舎が完成し、40年に丹沢大山が国立公園に指定、43年に御殿場線が全線電化、44年に東名高速道路が開通、46年に皆瀬川浄水場が完成するなど、新しい町づくりが進められます。昭和47年には、集中豪雨により三保地区などが大きな被害を受け、国の激甚災害の指定を受けました。

昭和38年 役場庁舎

御殿場線電化

昭和43年 御殿場線の電化

昭和47年集中豪雨

昭和47年 集中豪雨(箒沢)

 農業では、昭和47年にみかんに替わる作物としてキウイフルーツの栽培が始まるほか、53年には三保ダムが完成、丹沢湖が誕生し、新しい観光地とするため丹沢湖マラソン大会が開催されます。

三保ダム起工式

丹沢湖

丹沢湖マラソン

 昭和60年に町民憲章を制定、63年には東京都品川区と「水と緑のふれあい交流」が始まります。


山北の歴史をもっと詳しく知るには…?

 町では町村合併40周年記念事業として、平成7年度から平成18年度まで山北町史編さん事業を行いました。

 山北町の有史以来の歴史や自然を史実に基づき明らかにし、皆さんに郷土の歴史を知っていただくとともに、収集した史料を後世に伝えようとするものです。

 これまでに通史編1巻、史料編4巻、別編2巻、別冊2巻を刊行・販売しており、購入方法などの詳しくは、つぎのページで紹介しておりますので、ぜひご活用ください!

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山北町役場生涯学習課生涯学習スポーツ班

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