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鉄道の町「山北物語」


 明治から昭和の初めにかけての山北は、鉄道の町として知られていました。当時、東海道線の要衝として栄えた、山北駅と鉄道の物語を町の前史としてこ紹介します。


●鉄道誘致の英断

 産業や都市が急速に発達した明治維新後の日本では、鉄道輸送が文明開化を支えていました。1872年(明治5年)に横浜〜品川間で開通した鉄道は、後に京都〜大阪〜神戸間でも開通し、やがて、東西のレールを結ぶ東海道線が計画されました。

 山北に鉄道と駅が置かれた背景には、沿線有志の熱意が国鉄や政府を動かしたという事実もあったようですが、その際に問題となったのは、険しい箱根山を越す山北〜御殿場間の路線決定でした。

 東海道線の路線決定にあたって最も苦心したのは、天下の険箱根山をどうやって越すかということで、幾つかの案が検討されました。

(1) 国府津(現小田原市)から海岸線を通って箱根山の下を長いトンネルで貫き沼津方面へ出る

(2) 関本(現南足柄市)から狩川沿いに地蔵堂を経て、足柄峠の下をトンネルで貫き竹ノ下(現小山町)に出て御殿場に至る

(3) 国府津から酒勾川沿いに山北を経て、箱根山を大きく北に迂回し御殿場に至る

 当時の土木技術から前2案は施工不可能と判断されたが、山北・御殿場間も山が険しく地形が複雑なため、十数回の測量検討の結果1887年(明治20年)にようやく山北・御殿場ルート(現在の御殿場線)が決定されたのです。

国府津から酒勾川沿いに山北を経て、箱根山を大きく北に迂回し御殿場に至る


●陸蒸気の轟音にびっくり

 多くの渓谷や急勾配を抱えた地形を克服するために、トンネルと橋梁を多用して、ようやく国府津〜静岡間が単線で結ばれたのは、1889年(明治22年)のことです。

 山北駅は、同年2月1日に開業しました。当時の時刻表によると、山北駅に停車する旅客列車は、上り新橋行が4本、下りは京都行・熱田行・静岡行・神戸行きの4本でした。

 ちなみに新橋〜山北間の所要時間は、2時間半から3時間。運賃は下等で59銭、中等は1円18銭、上等は1円77銭だったということです。

 駅と鉄道をめぐる様子も現在とはだいふ趣が異なります。列車は「陸蒸気」と呼ばれ、駅には近郷の人々が弁当持参で見物に詰めかけました。列車の接近は、駅員が「きたぞー」の大声で知らせていたそうです。

鉄道の町 山北 御殿場線 7980(B)型(米国Rogers製)
明治時代の山北駅機関庫
機関車は7980(B)型(米国Rogers製)1897年(明治30年)に導入された。
性能が良く整った姿が評判で「ロジャース」と愛称されていた。


●人気を集めた国鉄職員

 当時の山北駅は、箱根越えの基地となる交通の要衝でした。山北〜沼津間は1000分の25という急勾配が延々と続き、強力な補助機関車なしでは越えられない東海道線一の難所でした。さらに箱根外輪山と西丹沢山塊の間を流れる酒匂川を縫うようにして上るため、7つのトンネルと20もの橋梁があり、この区間を走る様子は「鉄道唱歌」にも歌われています。

いでては くぐる トンネルの
前後は 山北小山駅
今も忘れぬ 鉄橋の
下ゆく水の おもしろさ

 下り列車は山北駅で石炭と水を補給し、機関庫に待機している後押し用の補助機関車を増結して、御殿場駅までの急勾配を越えていくのです。機関庫はレンガ造りの立派なものでしたが、機関車の方向を転換する転車台は、人間が丸太を肩で押して回すという原始的な設備でした。

 当時の列車は、客車の照明設備に石油ランプを使用していたため、屋根には円筒形の石油ランプ差入口が設けられていました。列車が駅に到着すると、ランプ屋と呼ばれる係員が屋根を渡り歩いて石油ランプを入れるのです。7つのトンネルを控える山北駅では、ホームに多数のランプが並べられていました。

 国鉄に就職すれば生活が約束されるということで、鉄道員には結婚を希望する女性が殺到するほどの人気職種でした。制服を着ていれば、どこでもツケがきいたといいますから、その信用度も相当なものだったのでしょう。

 山北町でも国鉄の人気は高く、農家の次男、三男はこぞって国鉄へ就職していきました。一時は、何らかの形で国鉄に関係のある家が、7割にまで及んだといいます。山北駅には、駅員だけでも百人を越える人員が詰め、機関士や車掌なども合わせると、総勢約600人が働いていました。駅の周辺には鉄道官舎が軒を連ね、仮装行列や花見大会など、国鉄職員やその家族を中心とした多彩な行事が鉄道の町を彩っていたそうです。


●空を焦がす機関車の煙

 1901年(明治34年)になると、単線の輸送力不足を解消するため、小山〜沼津間が複線化されました。列車は9往復に増えて、山北駅では、鮎ずしの駅弁や山北産みかんなどが売られるようになりました。

 山北駅で積み込まれる貨物も増え始め、1日の貨物列車輸送量は880両にも達しました。貨物の内容は、横浜方面に出荷される木炭・木材や竹製品、みかんなどが主体でしたが、小田原の漁港に揚がったブリを関西方面へ輸送することも少なくありませんでした。こうした取扱貨物量の増加や運行回数の増便に応えるために、1910年(明治43年)には駅の大改造が行われました。

 機関庫では、列車往復や入れ替えの作業が頻繁に行われ、後押し機関車の付け替えは、1日で145回にも達したと記録されています。その煙突から吐き出される煤煙は、軒下の洗濯物どころか戸棚やたんすの中までをススで汚したため、「山北は、すずめまで黒い」といわれました。

鉄道の町 山北 御殿場線 駅弁の表紙
駅弁の表紙
鉄道の町 山北 御殿場線 明治末期の山北駅前商店街
明治末期の山北駅前商店街


線守稲荷大明神(せんもりいなりだいみょうじん)

線守稲荷大明神(せんもりいなりだいみょうじん)の伝説

 明治のはじめごろの話。都夫良野(つぶらの)村の「駒の子」というところに住んでいた一匹のキツネ。べつにいたずらをするわけでもなく、いつも見晴らしのよい岩の上にすわって村人のことを見ていた。おじいさんが荷車引いて急な坂を登っていると、ときどきこのキツネが後ろから押していることもあったそうで、村人たちもキツネのことを村の一員のように思っていた。

 何年かたって村に鉄道(現在の御殿場線)が通ることになり、その工事のために岩もすみかも失ってしまったキツネは、いつしか村人の前から姿を消してしまった。やがてトンネルや鉄橋ができた村は、汽車が走りぬけるにぎやかな村になった。

 そんなある日のこと、汽車が「駒の子」のトンネルを出たとき、線路の上に大きな牛が寝そべっていた。機関士はあわててブレーキをかけ、外に飛び出した。ところがふしぎなことに、牛の姿はどこにもない。また別の日には、大きな石が置いてあったり、信号がとつぜん赤になったり…。そのたびに汽車は急停車したが、いくらしらべてもいたずらの主は見当たらなかった。

 それからしばらくたったある日、トンネルを出た機関士は、また線路の上の牛を見つけた。汽車はそのまま突っ走った。

 「ドーン!」何かが汽車にぶつかった。みんなが集まり、見るとあのキツネだった。

 村人たちはたいそう悲しみ、鉄道の人たちと一緒になって、このキツネを『線守稲荷大明神』として祀まつり、これからは大切な線路を守ってくれるよう頼んだそうだ。

鉄道の町 山北 御殿場線 旧箱根第二隧道 線守稲荷

鉄道の町 山北 御殿場線 旧箱根第二隧道 線守稲荷
現在の線守稲荷(御殿場線、旧箱根第二隧道の上)

 これが、線守稲荷のはじまりです。線守稲荷は都夫良野地区、国道246号の四軒屋付近(道路の下方)にあり、今でも毎年4月中旬には鉄道関係者がこの稲荷に集まり、祭りが催されています。

正一位線守稲荷神社の謂れ

 明治二十二年二月一日、現在の御殿場線が東海道線として開通した当時、 足柄上郡山北町の鉄道トンネル工事でキツネの巣が壊され土地の人たちはキツネの仕返しを心配していました。 やがて工事が完成し、列車が通ることになったある日、大きな石が置いてあったり、蓑、カッパを着た人が赤いカンテラを振ったり、 女の人が髪を振り乱して手を振ったりするのが見えました。

 機関士が急停車して確かめて見ると、全く異常はみられず再び発車しようとすると、また灯がトンネルの出口で揺れだすというありさま。 こんなことが何日か続き、機関士の恐怖はつのるばかりだ。 ある晩のこと線路の上で牛を見つけた機関士はまた幻と思い「えい!」とばかり突っ走ったところ、何かにぶつかり、 急ブレーキをかけて停車してみると線路のわきにキツネの死体が横たわっていました。

 箱根第二トンネル工事を請け負った建設業者の親方は、工事中にキツネの巣をつぶしたことを思い返し当時の山北機区と相談し霊を慰めようと トンネル上に「祠」をつくって祭ることにしました。

 伏見の稲荷神社からお札を受け「正一位線守稲荷神社」と命名し寒田神社の神主を招いて盛大な式を行なったところ、 果たせるかな幻のような現象はピタリと消えた。 それ以来毎年四月には大祭が行なわれているが、かつては歌舞伎役者による「キツネ忠臣」がうたれたりしたこともありました。

 今では、線路の守り神としてJR御殿場工務区長が祭主を務め、 JR関係者はもとより多くの地元住民が参加して、事故防止、家内安全の参拝を続けています。

 平成六年四月吉日

 正一位線守稲荷神社百周年記念

(線守稲荷の境内に建てられた神社の謂れの案内板より)

線守稲荷例祭 鉄道の町 山北 御殿場線 旧箱根第二隧道

線守稲荷例祭 鉄道の町 山北 御殿場線 旧箱根第二隧道
線守稲荷例祭の様子


●箱根越えの苦労話

 大正時代に入っても、東海道線の輸送量は増加の一途をたどります。しかし、列車が次第に長くなるにつれ、箱根を越える機関士の負担も急激に増えたようです。前2両+後1両の機関車で登るとはいえ、沿線には悪戦苦闘する難所もいくつかあり、急勾配で列車が立往生してしまうこともしばしばありました。

 一度停車してしまうと、緩やかな坂までバックで下ってから登り直すしかありません。何度やっても登れないことも多く、到着時間は遅れる一方だったということです。

 蒸気機関車の運転は、機関士と機関助手の2人が協力して行う職人芸でした。トンネルに入ると煤煙で窒息しそうになることもしはしば。夏には釜の炎熱が加わり、まさに地獄の苦しみです。前を引く機関車と後ろを押す機関車の息が合わないと、真ん中の貨車が押し上げられて脱線する危険があり、実際にその種の事故も多発していました。

 無事に到着すれば、それで良しというわけでもありません。ダイヤ通りの運行が要求されることはもちろん、石炭の使用量が勤務評定に影響するので、できるだけ無駄な蒸気を使わないようにするのが昇給の早道でもありました。そのため、後押しの補助機関車を操る山北の機関士たちは、石炭を惜しんで出力を絞ることもあったようですが、主機関車の乗務員から手を合わせて懇願されると、つい一生懸命押してしまうという人情話も伝わっています。

鉄道の町 山北 御殿場線 昭和6年頃の山北駅構内
昭和6年頃の山北駅構内
鉄道の町 山北 御殿場線 昭和8年頃の山北駅前
昭和8年頃の山北駅前


●丹那トンネルの開通

 こうした機関士たちの奮闘にもかかわらず、箱根の山は東海道連絡の障害であり続けます。馬力を増した新型機関車も投入されてそれなりの効果を挙げましたが、抜本的な対策にはほど遠い状況でした。

 事態を憂慮した政府と国鉄は、国府津から小田原から熱海を通って沼津へ抜ける新線を計画しました。しかし、ここでも問題は箱根越えであることには変わりありません。国鉄の計画は、山脈に穴を開けて直線で通過する丹那トンネルの掘削でした。しかし、喜ばしいはずのトンネル開通を契機に、山北駅のにきわいは消えていくことになります。


●賑わいの去つた後

 1934年(昭和9年)、丹那トンネルの開通に伴い、国府津から小田原から熱海を通って沼津へ抜ける線が新しい東海道線となりました。山北駅を含む旧東海道線は、御殿場線という名称の支線に転落してしまったのです。

 山北駅を通過する列車は極端に減ってしまいました。一時は、上下合わせて51本あった旅客列車は20本に削減。それも3〜4両編成の寂しい列車で、いつのまにか鮎ずしも姿を消してしまいました。上下50本あった貨物列車に至ってはさらに悲惨で、1日にわずか1〜2本という凋落ふりでした。

 あれだけいた駅員も、ほとんどが熱海線へ転勤となり、不夜城のように輝いていた構内の灯りも消えてしまいました。山北機関庫に待機していた機関士たちも、愛用の機関車に乗って新任部署へと移転してしまい、雑草の生えた施設は時の流れに呑み込まれて朽ちていくばかり。往時の隆盛は夢のように去り、その後は30人ほどの駅員が詰めるローカル線の駅になってしまいました。

鉄道の町 山北 御殿場線 山北機関庫
山北機関庫

 第二次世界大戦が始まると、物資不足に悩まされた政府は、御殿場線を単線に格下げして、外したレールを山口県の柳井線建設に充てました。使われなくなったトンネルは無線局の基地となり、機関区の跡地には軍需工場が建設されるなど、戦争は、山北駅の周辺を容赦なく変えていきました。

鉄道の町 山北 御殿場線 橋梁が取り外され橋脚が残った「酒匂第2鉄橋」
橋梁が取り外され橋脚が残った「酒匂第2鉄橋」
鉄道の町 山北 御殿場線 JR三島支所構内に保存されている「酒匂第2鉄橋」の橋梁
JR三島支所構内に現存する「酒匂第2鉄橋」橋梁


●戦後の御殿場線

 1945年(昭和20年)、終戦を迎えた山北駅には、買い出しに出かける人々を満載した列車が通るようになりました。石炭不足の影響で、1日に3往復程度の日があったり、車両不足で貨車に人を乗せたりという苦しい運行でしたが、とにかく平和が戻ってきたことは確かです。

 その頃は現在のような国道がなかったため、三保と清水の人々が山北駅に行くには、大蔵野から都夫良野を通らなければなりませんでした。谷ケの人々はさらに不便で、山の中腹を通って瀬戸の四軒家に降り、永安橋を渡り都夫良野からの道に合流しなくてはならないという状況でした。

鉄道の町 山北 御殿場線 山北駅に止まるD5270号機
山北駅に止まるD52-70号機
(この機関車は山北町鉄道公園に静態保存されています)

 谷峨(やが)信号所に駅を設置する案は大正時代からありましたが、様々な事情で実現が遅れていました。しかし、社会情勢も安定した1947年(昭和22年)、念願の谷峨(やが)駅設置が実現。地元の人々が資材や労働力を提供するという、手作りの駅でした。

 それから8年後の1955年(昭和30年)、山北町は周辺の3か村と2地区が合併して、新山北町が誕生しました。それを契機に山北駅周辺の整備が検討され、貨物ホームを払い下げてもらい、両側に商店街が広がる現在の姿が出来上がったのです。

鉄道の町 山北 御殿場線 往時の谷峨駅
往時の谷峨(やが)

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