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室生神社流鏑馬
平成22年 11月
3日(水・文化の日)
(県指定無形民俗文化財 平成7年2月14日指定)
室生神社流鏑馬
山北町山北の宮地に所在する室生神社に伝わるもので、起源は源頼朝の石橋山挙兵の際、平家方に味方したため川村の領地を没収され、斬刑に処せられるところであった河村義秀が、鎌倉で行われた流鏑馬の妙技により免ぜられ、旧領に復帰できたという古事(新編相模国風土記・吾妻鏡)によるとされています。
この鎌倉での流鏑馬は建久元年(1190)であり、義秀が旧領復帰した翌年から「室生神社流鏑馬」が始まったとすれば、800年余り続いていることになります。途中、農民の手によって受け継がれ、かつては的の当り矢によって翌年の稲作を占う神事として行われました(一の的は早稲、二の的は中稲、三の的は晩稲)。
室生神社の例大祭
流鏑馬は11月3日の室生神社の例大祭に神事として古儀に基づき行われています。また、流鏑馬の前には御輿と花車の渡御がおこなわれ、町内を巡行します。
室生神社
社伝によれば、天正8年(1580)の草創と伝えられていますが
「新編相模国風土記稿」には、室生神社は始め中川にあったものを天正8年、岸に移転し、その後地主神として祭られている天神の社(現在地)に遷宮したとあります。現在、中川には大室生神社があります。
祭神は建御名方尊(たてみなかたのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、菅原道真などのほかに、明治42年3月1日無格社27祭神を合祀しています。なお、同社には和鞍4つが保存されており、そのうち3鞍にはそれぞれ寛永12年(1635)、万治3年(1660)、寛文6年(1666)と記されています。
流鏑馬の次第
「流鏑馬開始り式」の後、ハッピ姿で裸馬に乗り馬場入りし、馬場を一往復する「馬場駈け」を行い、この後「馬場入りの儀」に続いて「垢離取(こりとり)の儀」のため垢雛取場へ向かいます。この後神社にもどり「流鏑馬始式」を行い騎射に移ります。 始式は、一の的を鳥居前馬場中央に立て、三回左回りして射、二の的、三の的も同じように射ます。騎射は先導の騎乗者が軍扇を上げて露払いしながら走るのに続いて、的を順に射ます。先導と騎手が交替して数回行い、拝殿前で「終了報告」を行って流鏑馬を終わります。
垢離取(こりとり)の儀
室生神社流鏑馬は垢離取から始まります。「垢離取をおこなわなければ流鏑馬は行えない」といわれ、これは室生神社流鏑馬の大きな特徴の一つで、何百年もの間伝承されてきました。
垢離取とは神仏に祈願する際、水を浴びて心身を清める儀式で、この垢離取をおこなう垢離取場は、室生神社の東北約800mの堀込台地の裾、かつては町の中心を流れていた皆瀬川の右岸にあたる室生神社の社地に設けられています。
流鏑馬関係者は列を整え、神官の修祓で垢離取場に来て、中央に盛られた土の上の御幣を中心に、右回り3回の後、総取締が水桶に入った水で馬の脚を洗い清め、口を濯ぎます。
的と当り矢
流鏑馬は、室生神社の境内前の長さ350mの道路に砂を10cm程度敷きつめて行われます。
一の的、二の的、三の的に当たった矢の数によって、翌年の稲作を占います。一の的は早稲、二の的は中稲、三の的は晩稲の出来を占うものとされ、これは流鏑馬が年占いの神事としておこなわれていることを意味し、今も人々は病魔除け、心身の健康を祈っています。的に当たった矢は、当り矢として、幸福を招くお守りに尊ばれています。
的は現在、中川より毎年納められていますが、以前は神縄と交替で奉納していたといわれています。また、静岡県小山町の室伏家からも毎年参列されています。的は3尺四方の杉板で高さ9尺の棒につけます。的持ちは世襲制で、一の的は田屋敷の井上家、二の的は城山の井上家、三の的は中清水の瀬戸家の三家が代々担当しています。
騎乗者は10月1日に氏子総代から依頼を受けると精進、潔斎に入り、数日練習した後、流鏑馬の約1週間前に小田原の御幸浜で心身を浄めます。以後自ら精進料理を作り当日をむかえます。
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問合せ
山北町観光協会
TEL 0465-75-2717
アクセス
JR御殿場線 山北駅下車 徒歩5分
東名大井松田ICより国道246号御殿場方向へ7km
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