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中世・近世

[2010年11月2日]

山北の歴史 中世・近世【鎌倉時代~江戸時代】

 『吾妻鏡』や『新編相模国風土記稿』によれば、河村秀高の子義秀は源頼朝の石橋山挙兵の際、平氏側に味方したため領地を没収されますが、流鏑馬の妙技により河村郷に復帰できたとあり、県指定無形民俗文化財「室生神社の流鏑馬」の起源と考えられています。

 建武の中興の時代、新田氏の鎌倉攻めの際には、河村氏は南朝側に味方し活躍しますが、北朝の足利尊氏軍に敗れてしまいます。

梵天山遺跡出土和鏡

梵天山遺跡出土和鏡

 その後、河村城(山北)は小田原北条氏の持城となり、河村新城(清水)・中川城(三保)・湯ノ沢城(三保)とともに、武田氏に備える重要な役割を果たすことになります。
新田義興居城相州河村古城絵図

「新田義興居城相州河村古城絵図」

 江戸時代の山北は小田原藩に属し、川村向原、川村岸、川村山北、皆瀬川、都夫良野、谷峨、湯触、川西、山市場、神縄、世附、中川、玄倉、平山の14ヶ村で構成されていました。元禄の大地震、宝永の富士山噴火により、山北は一時幕府領になるほどの大被害を受けます。また、大量の降灰により皆瀬川が氾濫を繰り返したため、時の名主湯山弥五右衛門らが中心となり、掘割によって洪水を防ぎましたが、反対に水不足に悩まされ、川入堰や瀬戸堰などの用水建設に力を注ぐことになります。
掘割前の皆瀬川(「相模国足柄上郡山北村絵図」)

掘割前の皆瀬川(「相模国足柄上郡山北村絵図」)

 江戸幕府が相模国に置いた関所は8ヶ所ですが、山北にも箱根の裏関所として川村と谷峨に関所が置かれました。

 村の生活は度重なる天災により、必ずしも裕福とはいえず、『山北村鑑』によると1746年ころの山北は、人口985人、168戸で穀物不足に悩まされていたとあります。村人の心のよりどころとして建立された道祖神庚申塔も多く残されており、古いものでは道祖神が明和6年(1769)、庚申塔では寛文11年(1671)のものがあります。

道祖神、庚申供養塔

(左)庚申供養塔【寛文11年】
(右)道祖神【明和6年】

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